野外活動

足利まちなか寺院:高福寺・法玄寺・三宝院の御案内

高福寺:手水舎の写真です。

足利のまちなかに、主要な観光スポットを示す『心の道しるべ』:回遊サインが設置されています。

『心の道しるべ』は、歩行者用の案内板ですが、はじめて足利を訪れた方が御覧になって第一に思うことは、「○○寺って、どんなとこ?」ですよね。

そこで本稿では、『心の道しるべ』で案内されている足利まちなかの8つの寺院の内、今まで当ブログで御紹介していなかった3つの寺院について御案内します。

すでに御紹介している5つの寺院について、以下の表にまとめました。

関連する寺院の記事ごとにリンクを作成しましたので、よろしかったら合わせて御覧ください。

寺院名 関連記事
鑁阿寺 国宝「鑁阿寺」:地元足利から御案内
「歴史と伝説の散歩道」
利性院(えんま堂) <足利市>利性院(閻魔堂)と堂裏にある六地蔵石幢(せきどう)
長林寺 足利七福神めぐり「徒歩最短:3時間コース」
5-③【長林寺】
常念寺 足利七福神めぐり「徒歩最短:3時間コース」
7-⑤ 【常念寺】
福厳寺 足利七福神めぐり「徒歩最短:3時間コース」
8-⑥【福厳寺】

【足利まちなか寺院:高福寺】

高福寺本堂の写真です。高福寺本堂

 

高福寺の山門の写真です。高福寺の山門

 

高福寺:手水舎の写真です。手水舎

<高福寺:基本情報>

名 称 祥林山 高福寺
(しょうりんざん
こうふくじ)
草 創 中世
創 建 万治2年(1659)
開 山 太岫玄修和尚
開 基 再建者は小林十郎左衛門
宗 派 曹洞宗
本 尊 阿弥陀三尊仏
本 山 永平寺 總持寺
所在地 〒326-0803
足利市家富町2523
電 話 0284-21-6206
アクセス JR両毛線足利駅:徒歩約15分
東武伊勢崎足利市駅:徒歩約16分
東武伊勢崎野州山辺駅:徒歩約29分
駐車場
(無料)
● 通二丁目広場駐車場

<高福寺:縁起(足利市史)>

高福寺本堂の扁額の写真です。高福寺本堂の扁額

高福寺(曹洞宗)宗牯和尚創建
一位置
本市西根に在り。祥林山と號す。長林寺末、本尊は、阿弥陀如来。檀徒二百六十餘戸あり。

二沿革
後天王の萬治二年(紀元二三一九年)五月十五日、牛堂宗牯和尚、長林寺第十二世創建。かつて火災に罹り、舊記古録を存せず。現在は第十六世武井周峯なり。

三什賓
近衛三藐院筆「趙州狗子」の書、田崎草雲筆と称する龍頭観音(墨繪)の軸物、及び故司法大臣横田千之助の書あり。

足利市役所(編纂)(1928), 第三篇 第二章 佛寺
足利市役所代表者 大給 新・永倉 牧太 足利市史 上巻の二
永倉活版所 pp.1,213

高福寺:本堂内の仏壇の写真です。高福寺:本堂内の仏壇

中世より古庵として在ったものを、万治2年(1659)に牛堂和尚が玄修和尚を勧請し、曹洞宗として開創、本尊は阿弥陀如来。

現在の本堂と庫裡は天明2年(1782)当寺10世道富和尚の代に、山門は第11世鉄厳和尚の代に、書院は昭和49年(1974)第17世手哲應和尚の代に確率。

高福寺:御朱印の写真です。高福寺:御朱印

本堂の右手に六地蔵、思推菩薩、蓮華手菩薩などの石仏と地蔵堂(閻魔堂)在り。

故武井哲應和尚の元で大勢が座禅。師の遷化後も座禅会は継承され現在に至る。

境内由緒書 より

* 武井哲應てつおう和尚・・・座禅会には、家人の松葉直助、書道家の相田みつを、画家の石井壬生子夫など、大勢が参禅し、現在に至っています。

<高福寺:境内>

高福寺:掲示板の写真です。高福寺:掲示板

 

高福寺;六地蔵の写真です。
高福寺;六地蔵

閻魔堂と菩薩像の写真です。菩薩像と地蔵堂(菩薩像)

本堂の右手には、六地蔵、思推菩薩、蓮華手菩薩などの石仏があります。

高福寺:延命地蔵菩薩の写真です。高福寺:思推菩薩

 

高福寺:蓮華手菩薩の写真です。高福寺:蓮華手菩薩

 

観光案内板:高福寺の写真です。観光案内板:高福寺

 

高福寺:地蔵堂の写真です。高福寺:地蔵堂(閻魔堂)

地蔵堂:抜粋
地蔵菩薩、閻魔大王及び十王、計十二体を安置。

地蔵は延命地蔵で当時第4世の門宅和尚が天和2年(1682)に修復されたが、どういう訳か頸が傾いてしまった。

当時は、よく飢餓があったので、飢えた衆生を悲しみ、いつでも救済に出かけられる用意をしていたのでしょうか。

平成10年(1988)に再び修復を施す。

頭の傾きが往時のままでいるのは、やはり、昨今の信念信仰の頽廃を憂え、ストレスが多く 地獄、餓鬼、修羅に苦しむ衆生を救うのだと憶念しているようである。

故に、かしげ地蔵という。

<高福寺:武井哲應てつおう和尚と相田みつを>

相田みつをの詩の写真です。ひとつのことでも/1962年 (有)香雲堂本店様 相田みつを ふるさと展 より

高福寺に贈られた「相田みつを美術館のお知らせ」

NHKラジオ第2
「声でつづる昭和人物史~相田みつを」
こころの時代で放送された音源が2週にわたって放送されました。

平成4年(1992)12月17日放送から「わが師を語る 武井哲應の教え」

● 第1回 3月7日(月)PM8:30~PM9:00
* 再放送 3月14日(月)AM:10:00~AM10:30

自分の人生哲学の根っこになったのは、戦死した2人の兄と師事した 武井哲應で、しっかりと自己を見つめる
禅の教えを学んだことなど・・・。

● 第2回 3月14日(月)PM8:30~PM9:00
* 再放送 3月21日(月)AM10:00~AM10:30

武井哲應師の教えとは、「本当の公平とは、受ける側が
公平感を味わうもの・・・」とか、毎日の生活の中では「人のせいにしない」「勝ち負けを考えない」といった生き方が大事だという話を相田みつをの貴重な肉声で放送します。

ここにボックスタイトルを入力

インターネット(ラジオ配信アプリ)で1回目より聴く事ができます。 NHK らじるらじる 聴き逃し 高福寺 令和4年3月18日

心の道しるべ:ポスト13の拡大写真です。心の道しるべ:中央通り(通二丁目)

高福寺を示す歩行者案内板「心のみちしるべ」に記された書道家「相田みつを」の書です。

高福寺周辺の「心のみちしるべ」4箇所に、「相田みつを」の書が掲示されています。

詳細は、足利まちなか散策『心のみちしるべ』:回遊サインの名言を解説を御覧ください。

高福寺の関連記事は、
足利三十三観音霊場巡り:① 鶏足寺~㉝ 鑁阿寺<完全解説>
<㉜ 高福寺:著名人たちが参禅した寺>
を御覧ください。

【足利まちなか寺院:法玄寺】

法玄寺の山門の写真です。
法玄寺:山門

法玄寺:手水舎の写真です。法玄寺

<法玄寺:基本情報>

名 称 帝釈山 智願院 法玄寺
(たいしゃくざん ちがんいん
ほうげんじ)
創 建 1200年頃
再 建 慶長11年(1606)
開 山 再建時は寂蓮社照誉芳陽上人
開 基 再建者は小林十郎左衛門
宗 派 浄土宗
本 尊 阿弥陀如来
本 山 知恩院
所在地 〒326-0805
足利市巴町2545
電 話 0284-21-2790
アクセス JR両毛線足利駅:徒歩約17分
東武伊勢崎足利市駅:徒歩約17分
東武伊勢崎野州山辺駅:徒歩約28分
駐車場
(無料)
● 境内;20台
● 織姫観光駐車場

法玄寺:扁額の写真です。本堂の扁額

 

法玄寺:本堂の写真です。法玄寺:本堂

<法玄寺:縁起(足利市史)>

法玄寺(浄土宗)畠山義純創建 一位置 本市巴町、機神山の東南麓に在り。

帝釋山智願院法元寺と號す。上野國新田郡太田町大光院の末寺にして、本尊は、阿弥陀如来まり。
(附記参照)

法元寺:玄簡に置かれた書の写真です。法元寺:玄簡に置かれた書

 

法元寺:本堂内の仏壇の写真です。法玄寺:本堂須弥壇

明治18年の火災により、本尊は焼失しましたが、本堂再建の際、群馬県太田市金山町の大洸院(呑龍様)より御本尊が寄贈されました。

御本尊は、木造の阿弥陀如来立像で、平安末期から鎌倉初期の作と推定されています。

現在は、第二十二世和田良順。檀家二百五十餘戸あり。

二沿革 古記録焼失したるを以て、創建につき、詳細を知るを得ず。

寺傳によれば、「當寺は、高倉天皇の承安年中(紀元1831-4年)、足利上總介義兼の長子、新田岩松遠江守義純(畠山)の本願により、寂蓮社照誉芳陽和尚の開山なり」(収調書)といふ。

法元寺:御朱印の写真です。法元寺:御朱印

されど、附記の如く、義純が母時子の菩提の爲。

之を建立せしとすれば、建久7年(紀元1856年)以後ならざる可らず。

法玄寺:北条時子姫五輪塔の写真です。北条時子姫五輪塔

又開山芳陽和尚とあるは、中興開山の誤ならむ。

義純の開基以後、文禄に至る4百年間に、盛衰あり。

文禄に及んでは、荒廃其の極に達したりしが、小林氏 當寺の興隆に志し、慶長11年(紀元2267年)足利の地、幕府の直轄となるや、小林重郎左衛門尉重信(藤原)代官となりて、此の地を治する傍、同15年、遂に遂に行基山と號し、堂宇を營造す。

而して中興の開山を、寂蓮社照誉芳陽とす。

則ち中興第一世なり。中興以前の僧系は不明なれど、真言宗なりしが如く。

中興以後、知恩院に属し、浄土宗となりしならむといふ。
(後略)

足利市役所(編纂)(1928), 第三篇 第二章 佛寺
足利市役所代表者 大給 新・永倉 牧太 足利市史 上巻の二
永倉活版所 pp.1,216-1,217

<法玄寺:当山の由来>

法玄寺:本堂前に掲げられた由来の写真です。本堂前に掲げられた由来

鎌倉幕府を創設した源頼朝の妻政子の妹が、北条時子です。

時子は足利義兼の妻で、足利の地に住んでいました。

義兼が鎌倉に滞在した折時子は、側女の讒言により密通の嫌疑をかけられ自害しました。

義兼の後妻の子足利義純は、義理の母である時子の菩提のために寺院を建立することを決意し、当山が真言宗の寺として足利に創建されました。

建立は、鎌倉初期(1200年前後)と推定されます。

鑁阿寺:蛭子堂の写真です。鑁阿寺:蛭子堂

北条時子を祀る鑁阿寺境内にある蛭子堂です。

時子の法号は智願院殿、義純の法号は法玄大禅定門でした。

また義純の後妻は未亡人で、先夫畠山重忠は帝釈天の化身との説がありました。

そこで当山は、帝釈山、智願院、法玄寺となりました、

当山はは、戦乱の世を経て荒廃していました。

江戸幕府が開かれ平和な世になると、足利では地元の有力者である小林十郎左衛門が代官となりました。

十郎左衛門は法玄寺の再興をを決意し、慶長11年(1606)当山を浄土宗の寺として再建しました。

平成21年7月 浄土宗 法玄寺 (境内掲示より)

<法玄寺:境内>

法元寺:普賢菩薩の写真です。法玄寺:普賢菩薩

手水舎の隣に鎮座する普賢菩薩です。

普賢菩薩
普賢菩薩は一切諸仏の理徳、定徳、行徳をつかさどり、白象に乗って釈迦如来の右手に侍している菩薩です。

普賢とは「あまねく」と「最も賢い」を表します。

また、象は仏の力の偉大さを象徴するもので、象の持つ六つの牙は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、知恵という六つの行いを人々に勧めています。

辰年、巳年生まれの者の守り本尊になっております。

平成21年 7月 浄土宗 法玄寺(境内掲示より)

法玄寺:無縁祭壇の写真です。法玄寺:無縁祭壇

 

法玄寺:鐘楼の写真です。法玄寺:鐘楼

 

法元寺:本堂の外壁画の写真です。法玄寺:本堂の外壁画

 

法元寺:本堂の外壁画の写真です。
天に昇る龍の顔や手に持つ水玉が、特に立体的に表現されています。

当山は、明治18年に火災により、堂宇伽藍を焼失しました。

本堂再建の際、二度と火災が起きぬように、この龍が見守っています。

この壁は、手水舎から本堂の屋根を見上げると見ることができます。

法玄寺:足利偉人の碑の写真です。法玄寺:足利偉人の碑

相田みつを先生と、栗田英男先生の碑です。

法元寺には、著名な書家である相田みつを先生と、栗田美術館を創設した栗田英男先生が眠っています。

栗田美術館の詳細は、
足利市の美術館5選:足利市立美術館、栗田美術館など【まとめ】を御覧ください。

<法玄寺:薬師堂>

法元寺:薬師堂の写真です。法玄寺:薬師堂

 

法玄寺:薬師堂の扁額の写真です。法玄寺・薬師堂:扁額

 

法玄寺薬師堂:薬師如来坐像の写真です。法玄寺薬師堂:薬師如来坐像

法玄寺の東隣にある薬師堂です。

たいへん美しい薬師如来坐像が安置されています。

法玄寺の関連記事は、
足利三十三観音霊場巡り:① 鶏足寺~㉝ 鑁阿寺<完全解説>
<⑩ 法玄寺:北条時子姫の墓所がある>を御覧ください。

【足利まちなか寺院:三宝院】

三宝院:山門の写真です。三宝院:山門

<三宝院:基本情報>

名 称 供養山 三宝院
(くようざん さんぼういん)
創 建 鎌倉中期
開 山 舜智上人
本 尊 阿弥陀仏
本 山 総本山・知恩院
大本山・増上寺 光明寺
善光寺 ほか
宗 派 浄土宗
所在地 〒326-0814
足利市通7-3094
電 話 0284-21-5012
アクセス JR両毛線足利駅:徒歩約24分
東武伊勢崎足利市駅:徒歩約18分
東武伊勢崎野州山辺駅:徒歩約19分
駐車場
(無料)
●あり:山門前
特記事項 御朱印はありません。
三宝院:本堂の写真です。三宝院:本堂

三宝院:本堂の扁額の写真です。三宝院:本堂の扁額

 

三宝院:本堂の仏壇の写真です。三宝院・本堂:須弥壇

中世に足利氏の帰依をうけた寺。

延応元年(1239)舜智によって開山されたという。

その後、数回の火災にあったが、嘉永5年(1852)勇勤のときに再建した。

歴代住職の中には汲誉重山のように法然の旧跡を訪ねて四国に赴き、永禄年間(1558~1570)に塩飽島に来迎寺を中興し、天正16年(1588)宇足津(香川県綾歌郡宇多津町)の浄泉寺を開山した者もいた。

足利仏教会(2021)足利の寺院 三宝院 p.51

<三宝院:縁起(足利市史)>

三寶院(浄土宗)舜智上人開創
一位置 本市通7丁目東、山麓にあり。上野國新田郡太田町大光院の末寺なり。

本尊は、阿弥陀如来、現住は、第27世釆澤圓晁。

檀家250戸なり。

寺傳に「當寺は、四條天皇の延應元年(紀元1897年)の創立に係り、開山は、舜智上人なり。

往古は、今の境内の前面にありしが、度々火災に罹りしを以て、後西天皇の寛文2年(紀元2322年)、終に現地に移れり。

後略
足利市役所(編纂)(1928), 第三篇 第二章 佛寺
足利市役所代表者 大給 新・永倉 牧太 足利市史 上巻の二
永倉活版所 pp.1,221

三宝院:鐘楼の写真です。三宝院:鐘楼

<三宝院:足利五郎太藤原行国の墓>

藤原行国の墓所の写真です。藤原行国の墓所

藤性足利氏は、平将門討伐の功績のあった唐沢山唐沢山城主藤原秀郷の子孫です。

子孫の伊勢崎淵名城主藤原成行が天喜2年(1054)足利に入部、両崖山に城を築き、足利藤原氏が誕生しました。

成行は、足利太夫と呼ばれました。

藤原行国の石塔の写真です。藤原行国の石塔

太夫は、武士最高の五位の別称ですから、足利郡司だったと考えられます。

嫡男成綱が早世したので、孫の家綱が成行の養子となり、足利太夫を継ぎました。

当時の継嗣相続は五位の家では、孫では相続が出来ぬ制度があったので祖父の養子となり、家督を継いだと思われます。

行国は「尊卑分派」によれば成行の弟行房の子となっていますが、「藤原系図」によれば成行の5男で栗崎五郎太郎と呼ばれました。

三宝院:境内のカリンの実の写真です。三宝院:境内に落ちていたカリンの実

同署には「栗崎蓮台寺城主大治元年(1126)7月27日卒、正善寺殿仁応行国」とも書かれています。

行国は、父成綱が早世し、幼くして家督を継いだ家綱が生長するまで、成行の後の足利郡司をつとめたと考えられています。

三宝院から望む風景写真です。三宝院から望む風景

足利五郎太と足利という地名を冠して呼ばれる時は、その他の棟梁を表していますから、一時期、足利藤原の棟梁で両崖山城主となり、家綱の成人により、譲って蓮台寺に隠居したと考えられます。

三宝院:境内のカリンの木の写真です。三宝院:境内のカリンの木

昔の暖かい人間関係が浮かんで来るような行国の墓です。

足利藤原氏は、源平合戦の時、平家に組したため、頼朝により滅ぼされました。

寄贈 Rotary 足利ロータリークラブ 由緒書より

<三宝院:山門前の六地蔵>

三宝院:山門前の六地蔵の写真です。三宝院:山門前の六地蔵

 

三宝院:六地蔵の写真です。金剛願地蔵尊

地獄に落ちた人を救う佛様

三宝院:六地蔵の写真です。金剛宝地蔵尊

餓鬼道の人を救う佛様

三宝院:六地蔵の写真です。金剛悲地蔵尊

畜生道の人を救う佛様

三宝院:六地蔵の写真です。金剛幢地蔵尊

修羅道の人を救う佛様

三宝院:六地蔵の写真です。放光王地蔵尊

人々のなやみを救う佛様

三宝院:六地蔵の写真です。預天賀地蔵尊

極楽の人を守っている佛様

三宝院の関連記事は、
足利逆さ川沿い散歩コース:法楽寺、樹覚寺など15名所の御案内
7 【足利逆さ川沿い散歩コース:⑤ 三宝院】を御覧ください。

<三宝院:近くにある床屋・公衆電話>

渡良瀬橋の歌詞にある床屋と公衆電話のある歩道の写真です。三宝院近くの床屋と公衆電話

森高千里さんの歌『渡良瀬橋』に登場する床屋さんと公衆電話は、三宝院東側の交差点(通7丁目)にあります。

最後まで御覧いただき、ありがとうございました。

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