足利市は「歴史と文化のまち」として、平成12年(2000)に「歴史都市」を宣言しました。
市内には、日本最古の総合大学とされる足利学校をはじめ、足利氏ゆかりの鑁阿寺、若者に大人気の織姫神社(入場者:50万人超)などがあります。
「歴史と文化のまち」足利市を散策すると、名所旧跡においていろいろな石碑を目にしますが、「正直言って何が書いてあるか、そもそも誰の石碑なのかさえわからない」という訪問者の声も多くうかがっています。
石碑の前に、「現代文の説明が表示されていればいいのに」と思うこともしばしばです。
そこで、本記事を御覧いただき、せっかく足利市にお越しになったみなさんが、せめて足利市の人気スポットに建立されている「碑」について、「○○という偉人の、○○の碑なんだね」など、少しでも関心をもっていただくことを目指しました。
文学碑といっても心配いりません。名所旧跡にある「碑」のだいたいのイメージを把握いただければ幸いです。
まずは、みなさんの大好きな『渡良瀬橋』の歌碑から御案内し、市内の鑁阿寺、八雲神社、織姫公園にある7つの碑について御紹介いたします。
本記事の参考文献:足利市役所編纂 足利市史
三田忠夫.足利の文学碑.足利文林会.昭和62年(1987).総62頁
* 筆者:もと足利文林会会員
目次
【渡良瀬橋の歌碑と鑁阿寺・八雲神社・織姫公園の文学碑を訪ねる散歩道】
<御紹介する7つの石碑一覧>
石碑名 | 建立場所 | 所在地 |
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森高千里『渡良瀬橋』の歌碑 | 渡良瀬橋北たもと | 〒326-0814 足利市通3丁目 |
小佐野真砂岐の句碑 | 鑁阿寺 | 〒326-0803 足利市家富町2220 |
須永風齋の句碑 | 〃 | 〃 |
奥河内清香の歌碑 | 八雲神社(大門通り) | 〒326-0001 足利市大門通2379-2 |
岩沢渓石の詩碑 | 織姫公園 | 〒326-0805 足利市巴町3890-17 |
國末康魚の川柳句碑 | 〃 | 〃 |
青木幸一露の句碑 | 〃 | 〃 |
【渡良瀬橋(わたらせばし):橋の北側たもとの歌碑】
渡良瀬橋:昭和9年(1934)9月竣工。
渡良瀬橋は、渡良瀬川に架かる現存する永久橋としては最古。(国土交通省:渡良瀬川上流の松木川も渡良瀬川に含むとし、日光市足尾地区にある古河橋を最古とすることも)
森高千里さんの名曲『渡良瀬橋』は、栃木県足利市を流れる渡良瀬川に架かる12の橋の一つです。
『渡良瀬橋』(歌):平成5年(1993)1月25日リリース。
< 渡良瀬橋の歌碑:森高千里さんの名曲『渡良瀬橋』>
『渡良瀬橋』の歌碑:平成19年(2007)建立。
森高千里さんのファン必見の「森高千里の部屋」でも御案内のとおり、本町緑地公園施設整備事業計画内の「わたらせリバープラザ」への移設はなくなりました。
参照:森高千里の部屋:「渡良瀬橋歌碑」の移転はなくなりました!!
「わたらせリバープラザ」建設地は、渡良瀬橋の上流ですから、御覧の画像のような<渡良瀬橋の歌碑から見る渡良瀬橋と夕日>が見られなくなってしまうところでした。
碑の表には、
渡良瀬橋
作詞 森高千里
作曲 斉藤英夫渡良瀬橋で見る夕日を あなたはとても好きだったわ
きれいなとこで育ったね ここに住みたいと言った
電車にゆられこの街まで あなたは会いに来てくれたわ
私は今もあの頃を 忘れられず生きてます今でも 八雲神社へお参りすると あなたのこと祈るわ
願い事一つ叶うなら あの頃に戻りたい床屋の角にポツンとある 公衆電話おぼえてますか
きのう思わずかけたくて なんども受話器とったのこの間 渡良瀬川の川原に降りて ずっと流れ見てたわ
北風がとても冷たくて 風邪をひいちゃいました誰のせいでもない あなたがこの街で
暮らせないことわかってたの
なんども悩んだわ だけど私ここを
離れて暮らすこと出来ないあなたが好きだと言ったこの街並が
今日も暮れてゆきます
広い空と遠くの山々 二人で歩いた街
夕日がきれいな街
歌碑の左手側の再生ボタンを押すと、森高千里さんが『渡良瀬橋』を歌ってくれますよ。
渡良瀬橋に沈む夕日をみながら、ぞうぞお聴きぅださい。
<渡良瀬橋の歌碑:アクセス・基本情報>
所在地 | 〒326-0814 足利市通3丁目 児童公園南の歩道上(歌碑) |
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電 話 | 0284-43-3000 (足利市観光協会) |
アクセス | 北関東自動車道 足利IC:約15分 北関東自動車道 太田桐生IC:約20分 東北自動車道 佐野藤岡IC:約35分 JR両毛線足利駅 徒歩:約20分 東武伊勢崎線足利市駅 徒歩:約15分 |
営業時間 | 終日 |
駐車場 | 無 |
最寄りの駐車場 | 織姫観光駐車場(無料) 通2丁目多目的駐車場(無料) たかうじ君広場駐車場(無料) 中橋緑地(南北)多目的広場駐車場(200円) |
参照:渡良瀬橋へ車椅子や徒歩で安全に楽しむルートを画像で紹介
【鑁阿寺(ばんなじ):境内2つの句碑】
国宝 鑁阿寺境内には、「御橋再建寄付連名碑」:安政3年(1856)を筆頭に「徒然草の碑」などが建てられています。
< 小佐野真砂岐(こさの まさき)の句碑:足利小倉織の創始者>
太鼓橋を渡り、山門(桜門)をくぐり石畳の参道を本堂(大御堂)に向かって約30m進んだ左手側に、小佐野真砂岐の句碑(自然石:高さ1.6m、巾1.2m)があります。
碑のおもてには、
来方の 日は入りにける 稲雀
とあります。
来し方:過ぎ去った時、過去。きしかたとも。
稲雀:秋10月の季題。稲穂に群がる雀。
そして、碑のうらには、
頭陀をかけ、藜杖をひき、旅行に遊ぶは雅なり、はた古人を友とし、書に目をさらし、生涯をかみ送るも、雅に、あそぶ心は、同じからずや。
ここに足利の真砂岐居士は、遥に宝暦の産なり。若きより、蕉門のほそみを味ひ、世の名家にも交はり、やがて此の道の數奇人にも数へられしが、ありとしられんもうるさければにや、槻庵に引籠り、自らの発句をも、みだりにさたせず。風月に老を養ひ、閑に光際を送り、かくて、八十歳を寿として終りぬ。
しかあれば、その教によりし誰々、おもひらく、碑面に、居士の一句を残さば、永く教受の報恩にもならめと、文窓・雪堂の二子をさきとして、おのおの深志を発起す。
又近き頃、この道に遊ぶ風士、志を同じうし、好める道の手向草にもと、追福のむしろに、膝を屈し、終に一碑成就せりと、其あらましを述べ、うなずきて、■静舎嵐齋しるす。
嘉永三年秋 辱知縦遊合敬建立
参考文献:足利市史 下巻の二 PP.851-852
* 碑文中■:大漢和辞典に載っていない「木偏に屠」という文字につきましては、申し訳ありませんが、ウェブ上で入力できませんでした。読み方は、「ひば」で、「あすなろ」とも。(⇒国字)
* 蕉門のほそみ:蕉風俳諧の最高の理念を表わす語。「さび」「しおり」
* 嘉永3年:1850年
* 文窓:須永嵐歳の後輩。足利田中村の田部井文左衛門。
* 雪堂:須永嵐歳の後輩。足利市田島村の相場茂精。
<小佐野真砂岐の生涯(1762~1840>
小佐野真砂岐は、宝暦12年(1762)、寺家(鑁阿寺領:現在の大門通り)に産れました。
本名を小佐野茂右衛門福秀で、別に槻庵といい、家系は代々鑁阿寺の寺侍であったといわれています。
真砂岐は、機業も営むかたわら、幼少の頃から俳句を手がけており、天明8年(1788)25歳のとき、吟行の旅に出ました。
旅先の九州小倉では、小倉織の技法を習得し、帰郷後に「真砂岐織」として売出すると、きわめて好評であったため。やがて「足利小倉」とも称されるほどでした。
晩年、真砂岐は庵号を「槻庵」とし、諸国の俳家との交友を深めましたが、天保11年(1840)4月17日享年79歳をもって、その生涯をとじました。
* 寺家(じけ):てら。寺院。寺の者または僧侶。
1775(安永4)年 鑁阿寺領の機屋小佐野茂右衛門「足利小倉」を創織する
残念ですが、現存する「足利小倉織」は見つかりませんでした。
真砂岐の生家である現在の大門通り(鑁阿寺山門に続く石畳)には、今なお茂右衛門蔵が保存されており、自由に館内も見学できます。
茂右衛門蔵斜め向いに、このほど開局した足利コミュニティFM「FM DAMONO」のオープンスタジオがあります。
ぜひ、お立ち寄りくださいね。
参考:足利 FM DAMONO(えふえむ だもの)の場所と特色は?
< 須永嵐齋(すなが らんさい)の句碑:俳家として「旅日記」を残す>
槻庵真砂岐の句碑の対面、参道左手側にある須永嵐齋の句碑(自然石:高さ1.8m、巾1.2m)があります。
碑のおもてには、
明星の 志津かにきゆる 若葉かな
明星:金星(明けの明星、宵の明星など)
さわうあかな五月の夜明けの情景。
そして、碑のうらには、
元治元年甲子十一月 男須永由兵衛
* 須永由兵衛:7代目由兵ヱで、山辺地区の田部井宗右ヱ門の弟芳徳。
<須永嵐齋の生涯(1779~1852)>
須永嵐齋は、本名徳左ヱ門で、安永8年(1779)に寺家(現:汲足利市家富町)に生れました。(小佐野真砂岐の17年後)
生家は代々機業を営み、通称須永由兵衛(方兵ヱ)とも称し、嵐齋はその6代目で、上述のとおり芳徳が7代目になります。
嵐齋は機業のかたわら、年少より俳句に学び、小佐野真砂岐、金令舎道彦、夏目成美らに指南をうけました。
嵐齋は晩年、天保4年(1833)、54歳の時、事業を養嗣子の由兵ヱ芳徳に任せ、全国吟行の旅に出て、天保4年(1833)に「関西、九州」、天保9年(1838)に「奥羽信越記」、天保13年(1842)に「武相道記」などの旅行記を残しました。
嵐歳は嘉永5年(1852)12月14日、享年74歳をもって生涯を閉じました。
<辞世の句:追わるると思う月日か鵙の声>
その3年後、安政3年(1855)嵐歳をしたう追悼句会が催され、全国から200
名にのぼる俳人が追悼句を寄せ、それらを編んだ本が『俳諧雪あかり』です。
(本中:嵐歳114句、序文・為誰庵由誓)
* 金令舎道彦:春秋庵白雄門の俳人。本名は鈴木。医師。
「今日の月 さても惜しまぬ 光りかな 美知彦」
* 夏目成美:江戸後期の俳人。小林一茶の後援者。
* 為誰庵由誓:豊島由誓(1789~1859)江戸時代後期の俳人。
<鑁阿寺:アクセス・基本情報>
所在地 | 〒326-0803 足利市家富町2220 |
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電 話 FAX |
0284-41-2627 0284-41-1136 |
アクセス | 北関東自動車道 足利ICから10分 JR両毛線足利駅から徒歩10分 東武足利市駅から15分 |
公式URL | http://www.ashikaga-bannaji-org/ |
営業時間 | 午前9:00~午後4:00 |
収容台数 | 乗用車50台 |
駐車料金 | 無料 |
* 鑁阿寺の詳細は
国宝 鑁阿寺:地元足利から御紹介「歴史と伝説の散歩道」を御覧ください。
【八雲神社(大門通り):境内の歌碑】
足利鑁阿寺に向かう大門通りの途中、八雲神社の境内に奥河内清香の歌碑があります。
清香の歌碑は、鳥居をくぐり右手側(東南隅)です。
< 奥河内清香(おくこうち きよか)の歌碑:橘守部門の四天王>
碑のおもてには、
詠桜花歌奥 河内清香
囀るや唐にはあらぬ、大倭國のはたてに、咲き匂う桜の下は、たち寄れば老いさえ忘れ、花見れば憂さへ忘る。その花の咲の盛りは、貴人も賤の荒雄も、むら肝の心同じく、酒飲めば酒さえすすみ、歌よめば歌さえ浮かぶ、此処もへば奇しき花ぞ、敷島の大和島根に、匂う桜は。
この歌の見出しに「詠桜花歌」とあるように、咲き盛る桜の花を詠んだ長歌です。
そして、碑のうらには、
明治四歳次辛未夏良辰建立
とあり、明治4年建立とありますが、建立の趣旨、建立者は記されていませんでした。
<奥河内清香の生涯(1805~1873)>
奥河内清香は、本名を今尾逸平といい文化2年(1805)5月28日、新田上町(現:足利市通4丁目)の今尾祐庵(篤信)の三男として生れました。
今尾家は代々、戸田藩の医師を業としており、逸平の兄2人は医師になりましたが、父祐庵の願いから商人の道を進むも、商家見習いとして上京したものの馴染めず、帰郷しています。
その後、文政7年(1824)19歳の時、國学を学ぶため武蔵国(埼玉県)幸手に住む橘守部の門に入り、学ぶこと7年、天保3年(1832)27歳のとき足利に戻り、足利市巴町の法玄寺大門に別家し、書道と歌道の塾を開きました。
清香は長歌において、守部門の四天王といわれ、当時600名ほどの門下生がおり、余暇には時間を惜しまず古書などの筆写にはげみ、その稿本には、万葉集20冊、河海集20冊があり、入門の歌を編んだ「葦芽集」等46冊があります。(足利学校所蔵)
清香は、明治6年(1873)4月24日享年69歳をもって生涯を閉じました。
参照:足利学校と「松竹梅の伝説:現代版かなふり松の回答!」を御紹介
<八雲神社(大門通り):アクセス・基本情報>
正式名称 | 八雲神社 大門通り (やぐもじんじゃ だいもんどおり) |
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主祭神 | 素戔嗚男尊(すさのうのみこと) 奇稲田姫命(くしなだひめのみこと) |
所在地 | 〒326-0001 足利市大門通2379-2 |
電話 | 0284-41-9977(名草公民館) |
アクセス | JR足利駅:徒歩8分 東武足利市駅:約12分 |
駐車場 | たかうじ君広場駐車場(無料) 太平記館観光駐車場(無料) |
* 八雲神社( 大門通り)の詳細は、
『渡良瀬橋』の歌と7つの「八雲神社」巡りを御覧ください。
【織姫公園:3つの詩碑と歌碑
織姫公園内には、岩沢渓石詩碑、青木幸一露句碑、國末康魚川柳句碑があります。
<岩沢渓石(いわさわ けいせき)の詩碑:書家・漢詩人の功労者>
織姫公園は、足利織姫神社の上方、機神山(織姫山)山頂古墳を中心に、桜、ツツジ、もみじなど、美しい景観を楽しませてくれます。
岩沢渓石の詩碑は、公園山頂駐車場の西隣、東屋の手前に建っています。
遊織姫公園
峡間草漾微香 一路羊腸入酔郷
好鳥幽花誰不賞 雲山百里四望長読み下し
峡間の草木微香だだよう 一路羊腸酔郷に入る 好鳥幽花誰か賞ぜらん 雲山百里四望ながし
<岩沢渓石の生涯:書家 「相田みつを」の先生>
書家、文学者(俳句:俳号「大夢」、漢詩:川上天山に師事)足利市制功労者(文化)受賞。
岩沢渓石の本名は亮一で、明治34年(1901)10月15日、館林町に生れました。
渓石は東京業平商工学校を卒業、五十嵐春山、小野鵞道に師事し、書道研究斯花会に入会。
小野鵞道没後は、吉田包竹に師事、昭和5年(1930)書道塾「渓石書院」を開き、足利書道会を興し、書道誌『書譜』を発行しました。
昭和18年(1943)、「相田みつを」が書家を志し、渓石に師事しました。
参照:足利まちなかご利益マップ:渡良瀬橋・織姫神社・鑁阿寺など11選
< 國末康魚の川柳句碑:栃木県川柳協会長>
織姫公園には、機神山古墳を中心として青木幸一郎句碑、岩沢渓石詩碑が建てられています。
そしてもう一つ、頂上ホワイトパレスの入り口前、山頂古墳を背に國末康魚の川柳句碑があります。
碑の表には、
音のしたつぐ日 浅間の灰が降り 康魚
碑のうらには、康魚ゆかりの方々27名の名が記されています。
前田雀郎 木村汀草 柿沼月歌 村田周魚 景山銀治郎 岩沢渓石 町田幸久 荻野英二 石井秀風 英恵美子 ・・・
<國末康魚の生涯:短文芸をマスター>
明治44年(1911)、足利市家富町の生れ、旧姓長谷川。
職歴は足利郡農会書記、足利新聞発行、東京藤井入社、東京信用交換所足利支局長などを歴任。
文学界においては、少年期から柿沼月歌に師事、『砂丘』『荷馬車』『朱欒』などを発行、
戦後に『両毛文学』を創刊。
川柳織姫吟社内に「芽柳会」を設立し、新人の養成に寄与しました。
< 青木幸一露の句碑:足利俳壇の第一人者(昭和初期)>
ホワイトパレスの東全面に、青木幸一露の句碑があります。(自然石:高さ90cm、巾150cm)
碑の表には、
渡良瀬を 加茂とも四方の 春景色 幸一露
そして碑のうらには、
藤巻伽村 田村貫水 望月擣声 飯塚風也 佐取一酔 岩下銀羊 尾上雨城 松村鳴海(昌明) 丸山三一 岩沢大夢(渓石)・・
など、幸一露と関係の深かった俳人の名が記されています。
<織姫公園:アクセス・基本情報>
渡良瀬橋から臨む織姫山と織姫神社(中腹)。
織姫公園は、織姫山の頂上の機神山古墳を中心とした周辺(もみじ谷など)です。
<足利織姫神社・織姫公園:基本情報>
所在地 | 織姫公園:〒326-0805 足利市巴町3890-17織姫神社:〒326-0817 栃木県足利市西宮町3889奉賛会事務所:〒326-0817 足利市通3丁目2589 (足利織物会館内) |
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電話 | 事務所:0284-22-0313 Fax:0284-22-3720 (お問い合わせは、平日のみ) |
アクセス | 北関東自動車道 足利IC:10分 北関東自動車道 太田桐生IC:15分 JR足利駅 :徒歩30分 東武足利市駅 :徒歩30分 (カーナビ入力:手打ちそば 伊とう 足利市巴町3890-17 ☎0284-21-5201 織姫山へ上がり、本殿右手側の 中腹の駐車場を御利用ください) |
社務所受付時間 | 午前9時~午後4時(年中無休) |
駐車場 (すべて無料) |
① 織姫観光駐車場(本殿登り口 一の鳥居前) :バス1台 乗用車13台 ② 織姫駐車場(本殿東側 織姫山中腹) :30台 身障者用1台 ③ 織姫公園駐車場(本殿裏側 織姫山頂上) :28台(乗用車専用) ④ もみじ谷駐車場 (ホワイトパレス手前:11台:乗用車専用) ⑤ さいこうふれあいセンター(足利市西宮町 2838番地)旧西小学校跡地 (一の鳥居より150m西側の山側) :バス2台 乗用車29台 |
【おわりに:織姫山から臨む渡良瀬橋】
足利市内には御紹介の文学碑の他に、多くの句碑、歌碑が建立されています。
本記事では、短時間で散策しやすいルートを選定しました。
石碑の中には老朽化等により現存せず、文献のみで知ることも多々ありますが、こうした偉大な先人たちの碑に敬意を表しつつ、本稿をとじます。
最後まで御覧いただき、ありがとうございました。
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プログさん、ありがとうございます。また、よろしくお願いいたします。
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